17)第五 脱コミュニティの理論-五、六

五 都心機能のハイテク化

都市がその形成段階において、中心地域に職場が集中することは必ずしも現代の都市に限らない。たしかにその機能の集積は、封建時代の都市は権力者の“居城”という形で、かなり広大な地域を占拠していた。現代では、支配者・権力者に代わって、経済を支配するものが権力の象徴として、都心をいろいろな形に構築しつづけている。

都心地区の景観を代表するものに、銀行・保険会社等がある。いずれも“市民大衆”から金銭を集めて、それを貸し付けて中間の利ざやを稼ぐ。金を集めるには建物を立派にして見せる必要がある。銀行等の建物がいかに偉風堂々たるものがあるかは思い知らされる。しかもこれからは、

第一に、この中枢機能が急速に“機械化”してくることである。これまで都市の中心には銀行が軒を並べて、華麗な建物がその“信用”の背景となった。豪荘な建物が権力の象徴であった。しかし、それは、“マスコミ”“情報”のメカニズムの発達によって、必ずしも人間の視覚に訴える必要がなくなりつつある。また企業が、別々の施設をもたないでも共通の利用が可能となってきている。

第二に、そこに集中を必要とする人間がロボット化する傾向がある。これまでは、ある程度の都市の段階のなかには、会社・銀行・行政施設等が“セット”として存在した。これくらいの都市には中央に銀行の支店は、何軒必要だといった議論である。しかしそれらの機能が集約化されると、わずかな建物でその機能を果たすことが可能となる。それまでのような都心の景観をみることが出来なくなる。

第三は、建物、構造そのもののなかに、コミュニティとしての機能が集約される。すでに、世界の大都市に林立する超高層ビルは、これまで都市の地表にヨコに並んでつくられていた街区が立体化し、タテの状態のなかに囲まれるという傾向である。

とくに日本などは、“○○屋”といわれる機能が軒を並べ、それを一軒一軒“買いまわる”ところにコミュニティ的な感じが生まれていた。それが、一つの建物に取り入れられ、エレベーターやエスカレーターで上下するとなると、少なくともこれまでのコミュニティ・センスは変容せざるをえなくなる。

高層化し、集約化した都心地区に人間が集まるとしても、それは立体的な関係であり、その関係が生む意識も異なってくるはずである。

六 都心機能の国際化

都市とくに大都市の機能は、情報メカニズムの発達に伴って“超地域性”となる。これまでの都市は、同じ情報でも、印刷物によるものは“水際”でチェックすることができた。

“税関”という機能は、まさに世界が幾百かの国に分かれている状態を、もっとも具体的に表している。しかしその情報も、音声・映像・光となると、もはや税関による“取締り”は不可能となる。世界の情報を、地球上のいかなる空間でも自由に受納しうる。

二一世紀に向って、国家という体制に根本的な影響を与えるのは、この情報のメカニズムである。すでにわが国でも、“情報公開”という言葉が一般的になりつつある。情報に範域を画することは難しい。より明確にいえば、情報メカニズムの発達は、“国境を越えて、世界の都市の直接の連帯を高める”ことを意味する。

さらにそれを具体的にいえば、都心地域には、世界各国の人間が集まり、定住するものも多くなる。異質な人間の接触は、人間関係の“緊張・緩和”を増幅する。この“人間接触の振動”ともいうべき状態は、接触の因子が異なった人種・人間であればあるほど激しくなる。まさに二一世紀に向っての都市・大都市のアメニティの姿だといってよい。

すでにその徴候は東京都などに現れている。最近における東京都の都心を歩く外国人が増えていること、外国人による住宅・アパート等の需要が多いこと、日本の商社等をはじめとして、行政機能・学校教育にまで、外国人の参加が増えてきていること。これを裏返して考えると、長い生活を規定してきた日本人の孤立性・独自性・独断性等に反省が求められるということである。

この傾向は、日本が直面している難題である“貿易不均衡”を、どのように調整するかの対策が、いっそうそれを推進するということになる。

外国製の飲料水が、戦後アメリカから伝えられた。アメリカの“コカ・コーラ”は一時日本を占領した。日本はその代わり“自動車”でアメリカに報復したとさえいわれる。このような“交流”は、二○世紀にはしばしば“戦争”の原因となった。二一世紀には、都市社会の国境をこえての役割が、国家に代わって“戦争”を防止する役割を果たすかどうかという重大な課題が潜んでいるのである。

「磯村英一都市論集III-IX日本の都市社会の未来像」より抜粋

「磯村英一都市論集III-VIII 人間回復のまちづくり理論」.pdf