53歳の夏にして‥。
7月17日曇り日の午後、早めの夏休みをとった私は、35年ぶりに福島県いわき市の母校の門をくぐった。18才で卒業してから1度も連絡をしていない担任の先生の消息を尋ねたいと思って、旅の合間に立ち寄ったのだ。明治時代からあった女子校も今では、男女共学になり名前も変わってしまって、往事の面影はなかった。事務室で担任の先生の連絡先を聞いてみたが、すでに退職されてもいるだろうから、調べようがないし、当時は独身だった先生もご結婚されて名字が変わっているかもしれないし、仮に分かったとしても個人情報保護の観点からご本人に確認してからでないと教えられないという。仕方のないことだ。それでも積年の想いを何とか伝えたいという望みを託して、自分の名刺に携帯番号を書き、もし分かったらご連絡下さいとお願いして、校舎を去った。
往時、私の家は貧しかったので高校卒業後、大学への進学は考えてなかった。ところが進路相談の時間になるときまって担任の先生があなたは、大学へ行きなさいと薦める。家が貧しくて、大学への進学は考えていませんと答えると、国立大学なら奨学金をもらって、アルバイトすれば行けるわ。自宅からだって行ける大学はあるじゃない?だから大学へ行きなさいと薦める。国立大学へ行く程、成績も良くありませんしと言うと(1学年500人の中で、私の成績はいつも中位だったと思う)、それなら私が個人レッスンをしてあげるからと言われるので、それ以上進学しない理由が思いつかなくて、先生の薦めるがままに先生と私のマンツーマンの通信添削授業が始まった。半年もすると先生のお陰で、私の国語の成績は500人中50位以内に入るようになって、合格ラインに入るようになった。でも国立大学の受験科目は5科目あったから、国語だけ良くても合格するわけではないので、今度は数学や理科の先生にもその担任の先生がお願いして個人レッスンを受けるようになった。
それなのに、私は受験に失敗した。それから35年の月日が流れ、づーっと気になってはいたが、1度も連絡をとることもなく53才になろうとしていた。
やはり遅すぎたことを後悔しながら母校をあとにした。その時、携帯がなった。
「鈴木さん?」
「あっ・・・・・」聞き覚えのある声。
「鈴木さん?」
「はい。・・・・・」すぐにその声の主がわかったが、涙にむせって声が出ない。
「鈴木富士子さん?」
「はい。鈴木です。今までご連絡もせず‥。鈴木です。当時お世話になった鈴木富士子です。長い間ご連絡もせず、35年がたってしまいました。‥でも先生のこと忘れたことはありませんでした。ただ先生のご恩に応えるような生き方をしてきていなかったので、ご連絡ができませんでした‥。」
「便りのないのがいい便りっていうでしょう」と語りかけてくれる恩師の声は、鈴の音のように透明で暖かく響いた。
それから何を話したかはよく覚えていないけれど、とにかく一目お会いしてこれまでのお礼を申し上げたいので、2日後にお会いする約束をした。
そして再会の時、「ふっちゃん」「ふっちゃん」と先生は私を呼んだ。「あの頃もそう呼んでいたのよねっ」と。卒業してからこれまでの生き様を報告し、とにかくお詫びし、そして3年前に逝った父の話しや、先生のあの頃の授業を思い出し、あの時こんなことを先生は言われていて、意味が分からなかったけど、この頃はこういうことなのかなあと思ったりしています。などなど話しは尽きることなく、時間はあっという間に流れた。
先生に見送られながら、何度も別れの挨拶を繰り返した後、遠回りしながら「いわき」駅へ向かった。往事の面影を探しても、どこにも過去の風景に繋がるような所はなかったが、名残りを惜しむ私の足は、なかなか駅に辿り着かなかった。