12) 四 移動社会とスキンシップ

四 移動社会とスキンシップ

しかし、人間は―あえて人類といった方がよい―その文明の根をこの地球上に下ろしたときから、今日までつづいているのは、その行為・行動を決定する最後の判断が、直接の人間関係―それをスキンシップの理論という―によるからである。“新人類”も例外ではない。

一つの例をあげてみる。一九八六年五月四日から、僅か四日間であるが、東京に、西側陣営の先進国首脳の集まりがあった。一般に称して“サミット会議”。サミットとは、“頂上・頂点”ということである。

これら先進国の首脳達は、いそがしい毎日を送っている。それぞれの国内さえ、集会に出るなどは限られている。各国の情報は、それこそ最高のシステムで、どのような事件でも直ちに耳に入る。それぞれの首脳の間には、“ホット・ライン”(直通連絡)があって、事実上の対話をすることが可能である。それなのに、なぜ“千里を遠しとせず”東京まで集まるのか、ここに二一世紀の都市像のなかにおいても、スキンシップの理論が存在することを裏書きするものがある。

スキンシップとは、直接の触れ合い。それは、メカニズムを通しての活字・音声・映像・写真等ではない。直接人間の“五感”に訴える感覚である。この感覚の相乗積は、算術級数ではない。幾何級数的な増幅である。この理論は何も新しいものではない。わが国の伝統的な言葉に、“三人寄れば文殊の知恵”がある。

三人の“賢人”-何も賢人に限ったものではなく、凡人でも同じである―が集まれば、知性の高い人にも優る結果が生まれる。世界の首脳が“一堂に会し”て談笑し、食事や娯楽を共にすると、その間に“文殊の知恵”が現れるかも知れないし、また新しい“発見・創造”もあるかも知れない。そのメリットは、どのように精巧なロボットが出現しても及ぶものではない。

このような論理からすると、世界の歴史は“都市の集合”のなかから生まれてきている。その原則は、二一世紀の社会についても変わらない。その二〇世紀における頂点が、ニューヨークにある「国際連合」のセンターである。

国連はニューヨーク市にあるといわれているが、この表現は正しくない。なぜならば、国連のセンターの立地しているところは、アメリカの国土ではない。国連自体の所有である。当然ニューヨーク市の土地でもない。之はといえば、ロックフェラー財団が国連の発足に当たって土地を寄付したのに始まる。したがって、形式的には国連がニューヨーク市のメタボリズムの頂点であるとはいえないわけである。

しかし現実的には、国連はその機能の拡大のなかで、 ニューヨーク市内にその根拠を拡充しつつある。一九八六年三月の私の訪問のときは、「DCI」といわれる超高層ビルの別館の一室であり、DC2も建築中であった。

この国連の機能は、加盟している世界各国の最高の支配体制―それが資本主義・民主主義・社会主義等いずれの体制であるを問わず、-の頂点が“直接の対話”をするための“常設集合場”である。

これに対してすでに述べた西側先進国首脳会議―サミット会議―は“臨時の集会”である。このように、国境をこえて、あるいは国境のいかんを問わず、人間のメタボリズムの頂点が、流動から固定して地球上に存在すること、その場所が、いずれも“都市”または、“都市の近郊”であることは、最後に述べる。“エキュメノポリス”の前提問題として、極めて興味ある議題である。

「磯村英一都市論集III-IX日本の都市社会の未来像」より抜粋

「磯村英一都市論集III-VIII 人間回復のまちづくり理論」.pdf