6)IX 日本の都市社会の未来像-第二 都市論形成の軌跡
第二 都市論形成の軌跡
一 印象に残る都市の生態
私が未来の都市像などといった、大それた課題にあえて取り組もうとするのには、八十年の生涯を、“東京”を一応の故里―それは生涯を送ったという意味でーとしながら、“都市社会への挑戦”は、理念的にも現実的にも、地球上のあらゆる面に関係をもつからである。
理論的には、自分の学位論文が「日本都市社会構造の分析」であり、日本都市学会の最初からのメンバーであったことからである。現実的にはその生涯の半分を、「東京の行政」に直接たずさわったこと、そして数十回にわたる海外旅行の大部分は、都市問題の研究か視察のためである。
一九六三年(昭和三八年)、私が六〇歳という“還暦”のときに、友人達の奨めで「都市問題事典」(鹿島出版会)を編集主宰して、都市研究への一つの拠点を印している。その後一〇年たって訂正新版を求められたとき、自分の生涯で見て廻った海外の都市のなかから五〇を選んでコメントしている。それは私が見て廻った都市のうち、これまで多くの解説書・案内等に記述されているものとは異なった、“視点”をおいていることとして、今日でも自負している。そのなかで、世界の大都市といわれるニューヨーク、パリ、東京の三つをとりあげてみると、次のような理論的な話ができそうである。
第一に、ニューヨークは、世界各国の変動を常にまともにうけている都市である。その実際は、一九七〇年代にアメリカが直面したベトナムをはじめ、中南米そして中東などの戦乱の影響が随所に見られる。ときにはここは“ディストーピア”‘(衰える都市)ではないかという印象さえうける。しかし、少し科学的に考えると、ここは、常に世界で最も高い建物のあるところとしての誇りを持ちつづけている。それは今日でも変わらない。新しい超高層ビルの建設は今も進んでいる。しかしその足もとには、瓦礫や紙屑にまみれた“ホボ”(浮浪者)が眠っている。戦場での死傷兵の姿といった感じさえする。
すなわち、この都市の繁栄の基礎には、建物という物理的に高いものと、生活という現実的に低いものとが“共存”していることである。
このうち“低いもの、貧しいもの”は、遠くアジア(ベトナム等)や中南米(ブラジル等)からやってくる。なぜアジアからは近い日本の東京に集まってこないかという疑問がわく。しかしよく考えてみると、東京には、遥か南米やアジア大陸から、海をこえてもやってくるといった“アメニティ”(消極的な意味での)がないからではないかと思う。
そして、ニューヨークには“古さ”がある。よくいえば“歴史”があり、別の表現をすれば“文化”があり、職業能力に欠ける外国人も何とか住める機会がある。また一面では“古さ”と“新しさ”が混在する。
ニューヨークの五番街、ロックフェラー・プラザという中心に近いところに、古い教会がある。超高層ビルの谷間によくも存在すると思うが、一たび扉を開くと、真暗い講壇の前には、何百というロウソクが光を投げている。よく見ると、その前に跪いて祈りを捧げている多数の“市民”を見出す。それは戸外の超モダンな建物の構造とは、全く異なった風景である。
「高いものと、低いもの」、それは建物だけではない。収入・身分・職業等あらゆるものを通じての“格差の存在”が、この都市の魅力をつくっているのである。
第二に、文化という面も含めて、やはり世界の大都市といわれるパリを思い出してみる。少なくとも私にとってパリとは何であるかと問われれば、シャンゼリゼ通りの“喫茶店(カフェと呼ぶ)と答える。
何度かのパリ訪れのたびに、私はこの“露店式喫茶店“にひかれる。それは比較的道幅の広い路上に、特定の店だけが店を広げている。そこに坐って一杯のコーヒーを注文しながら、通りを歩く人や車などを見る。背景には、皇帝ナポレオンの記念ともいうべきエトワールの凱旋門が見える。
ナポレオンはある意味では、第二次世界大戦の原動力となったヒットラーに相当する独裁者だった。それが、自由と平等を誇るフランスでは、あらゆる魅力の対象となっている。
実は、この私の好きな喫茶店は、ナポレオン時代に、道路の占用を許可されたという。たしかに、その許可証が店に飾ってあったことを見ている。
この都市でも、古いものと新しいもの、そして皇帝としての権威と、平和としての平等が共存している。それでは建物はとなると、パリは、その”古さ“を守るために、すべての新しいものは、デファンスと呼ばれる副都心に集中している。
それは“遷都”かというと必ずしもそうではない。ただ高いものが、“古い価値”を減らさないために、別に位置しているのである。
第三に、それでは東京は、となる。たしかに東京は日本はいや世界のメトロポリスである。しかし最近では、その発展を象徴するかのように東京シティホールは、新しい副都心新宿に移ることが決まった。まさに、“世紀の決断”といってよい。
しかし、東京をニューヨーク、パリと比較してみると、建物の高さは、ニューヨークとは比較にならないほど低い。しかし建築中の高層ビルの下で、野宿をするような貧しさは見られない。
一九八五年の「国民生活白書」で、政府は、日本人の八〇%以上が“中流階層”としての意識をもつと述べている。ある新聞社の世論調査では、それは九〇%に近いとまで報じている。
このような状況からすると、東京はニューヨークやパリとは異なる条件をもつ都市といえる。しかしそれは、生活条件の平均化だけからの問題ではない。東京は一九四五年以前の不幸な戦争で、都市の必要とする“古さ”の大部分を失っている。いわんやそれから二〇年ほど前の一九二三年には、大震災につづく火災で古さのすべてが消えている。これは東京が都市としての条件を“見失う”おそれのある課題として見逃すことはできない。
東京に次いで日本のユニークな都市といえば京都。しかし、この京都は、以上のような基礎的な印象からしての欠点をもっている。それは不幸にも、京都駅近くに建てられた“京都タワー”の存在である。なぜあのような“新しい構造”が、“古い環境”のなかに建てられたのか。「新旧共存の論理」からすれば、その構築は当然のように見える。しかし京都は古さを誇りとする。しかも”古きもの“の構築には、歴史と時間が必要である。
外国からの訪客は、あの京都の塔を見て博覧会が開かれているのかと尋ねる。同じ塔でも、京都の場合は、何百年の歴史が背景にあってこそはじめて都市のシンボルとなる。
「磯村英一都市論III集 IX 日本の都市社会の未来像」より