IX 日本の都市社会の未来像

IX 日本の都市社会の未来像

第一 はじめに

私はこの論集の最後の章の“はじめに”をワシントンの娘のマンションで書いている。一九五〇年代に、彼女はアメリカの大学を終えて、国連に就職してから、すでに三〇年近くになる。日本国内の生活よりも、在米の仕事に慣れて、表面からみると日米の文化のカクテル的所産のように見えるが、内面的には必ずしもそうでない。彼女のなかに“日本の女性”を見ることができるのは幸いである。

何回かの私の訪問のなかで、彼女は決して、“日本らしさ”を失っていない。それは個人主義の傾向のつよいアメリカでの生活のなかで、他人に対する“思いやり”-それは肉親である私にだけではないーが存在していることである。

このような印象を帰国して語ったら、その見方は必ずしも正しくないといわれた。アメリカ人はよく“コミュニティ”という言葉を使う。しかしそれは、この国では日本でいうように、単に物理的に近くの地域に住んでいるというだけの関係ではない。人種が違い、異なった言葉を使い、風俗が変わっていても、そこには人間としての親切さが湧く。それはこの国の“まちづくり”のなかで、“塀”というものが日本のものが多くない。塀をつくり、門を構えることは、同じ地域生活のなかで”区別“をすることであり、それが付合に当たっての”差別“にまで発展する。

アメリカでは、実は人間がつくる塀や門よりもきびしい人種・民族・国籍というものがある。アメリカでは、そのような絶対に近い“区別”を何とかして、同じ地域生活のなかで仲良くしていこうとする。その努力が実を結ばなければ、アメリカの社会は成立しない。当然その条件は居住する都市生活や、建物の構造のあり方にもあてはまり、人間としての理解が問題になるという。

このような話合いの結果からすると、私は、日本の社会での“まちづくり”-最近では“都市工学”などと自称する町づくりの専門家も、この仮名文字の言葉を使うようになっているーなどは、どれほどやさしいものか分からないと思ったのである。

逆説的いえば、日本の“まちづくり”の専門家達は、その“やさしさ”のなかに、実は日本にも、いぜんとして地域生活のなかに、きびしい“差別問題”が存在する。その名は最近ようやく“同和問題”として国民に知らされるようになった、新しい“まちづくり”の課題である。

私はここで、日本の“まちづくり”のなかでの“同和問題”を語るつもりはない。しかし、日本人の立場で、日本を中心とする都市の未来像を記述しようとするときに、どうしても、日本の社会の特異性とともに、その都市をつくる日本人の特性について触れざるをえないのである。あえて、異国を語りながらの感傷からの発想だけではない。

そういえば、一九八五年に私は二度中国の社会を訪ねている。一回は“まちづくり”の若い専門家達、二回目は若干年配の人たちとである。“中国流”といってもよい“社会主義社会”の建国のなかで、物理的な構造としての“まちづくり”は必ずしも大きな変化を見ていない。むしろ第二次世界大戦以前の建物の表面的“改装”といった印象がつよい。したがって、“若い中国”に“新しい構造”を期待した若い建築家達は、その期待に沿わなかったという印象を語っている。

私は、人間の居住の形態、その集積の象徴である都市など、イデオロギーの変化などでそれほど急に変わるものではないと思う。それよりも中国の社会が、何千年の歴史を通じて民族の融和-“五族共和“を目標とし、日本の国会にも相当する天安門前にある人民大会堂の壁面は、少数民族も含めて、各種の生活風俗が掲げられているーへの努力の跡がみられる。

わが国にも、民族問題がなかったわけではない。日本列島の“原住民”といわれるアイヌ民族は、現存し日本の社会を形成している。日本は決して単一民族国家ではない。少数民族の人権問題がある。否、それよりも日本人は同じ日本人を社会制度の犠牲とし、“身分差別”を実施し、その根がいぜんとして残っている。それはアメリカのような民族問題とともに、同じ日本人の課題である。

社会制度の所産とはいえ、三百年を越える差別の生活は、物理的にも社会的にも大きな傷跡を残している。かつては、“部落民”と呼ばれた人々も日本の社会に立派に貢献している歴史があり文化がある。

それでは、そのような“日本人の歴史”を、“まちづくり”のなかにとり入れ、時には国会の議事堂の壁に、日本の文化として紹介するようなことが出来るであろうか。

“まちづくり”ではもちろん、日常の生活のなかでも、いぜんとして区別の構造・差別の意識が存在している日本の現実を、いったいわれわれは、二一世紀の歴史にどのように反映しようとするのか。

ニューヨークの五番街―東京でいえば銀座通りーのある書店で、“ブラック・アメリカ”という本を見付けた。アメリカの建国以来、アフリカからときには強制的に移住させられた黒人のなかでも、主として ”成功“した人物を載せている。しかしそれを見ながらも私にとって半世紀間見つづけたアメリカの社会―一九三六年が最初だから一九八六年はちょうど五〇年となるーの大きな変化に目を瞠らざるをえなかった。一言でいえば、一部の突出した黒人ではない。アメリカのあらゆる社会に地位を占めるようになった姿に、計り知れざる驚きを覚えたのである。

日本の都市問題―それは生活のあらゆる面での“都市化”“近代化”“科学化”で象徴されているーは、以上の意味からすると“触れられたくない”面をもっている。どのように華麗なデザインであっても、また人間尊重をうたっても、身分の差別に対しての創意・工夫をもたないでは、評論の対象とはならないのである。

率直にいって、ニューヨークはアメリカ都市社会―ニューヨークを代表としてみるとーの二一世紀に向って、“好ましいまちづくり”のモデルとはいえない。私の半世紀を通してのニューヨークとの“付合い”のなかで今度ほど“侘しさ”を感じたことはない。それは何であるか。アメリカが何とか”平和“をと願いながら、”戦争“にまき込まれた結果ニューヨークの”まちなみ“にかげりが見られたからである。

“ノー・モア・ヒロシマ”という言葉をいうとアメリカ人は肩をすくめ一言もない。しかし日本人からすれば、“ノー・モア・ベトナム”といいたいくらいである。あのアメリカにとって“第二の不幸な戦争”といわれるベトナム戦争がなかったら、ニューヨークの街の乗物までが、“落書き”の対象となることはなかったと見る。中南米の問題、アラブの後始末、そしてフィリピンの処置など、日本という小さな社会からアメリカを見ると、いろいろいうこともあるが、この国くらい、努力しながら悪評を受ける国はない。ただし、その影響が前述のように“まちづくり”にまで及ぶとなると、ただでは済まされない。

率直に言って、二一世紀の“まちづくり”をアメリカの社会に求めることは出来ない。そこに見られるのは、ギリシャの故ドクシアデス教授の言葉を借りれば、“ディスートピア”(衰退する都市)でしかないからである。しかしニューヨークは別とするとアメリカ都市に、二一世紀に役立つと思われるいくつかのモデルを探すことが可能である。同時にその背景となっている理論のなかには、日本の都市がこれから直面するであろう現象をみることが出来る。

ニューヨークを中心とし、フィラデルフィア、ボストン等の都市の印象が、あまりにも強烈だったために、考え方のわい曲が懸念されるが、以下に“私のユートピア”としての、そしてその反対の存在としての“ディストーピア”についていくつかの都市像を描くことにする。

「磯村英一都市論III集 IX 日本の都市社会の未来像」より