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8)IX 日本の都市社会の未来像-第二 都市論形成の軌跡 三 経験としての都市状況の把握

三 経験としての都市状況の把握

都市を見る科学者の目は、背景となる学問によって同じではない。都市工学というが、土木や建築の専門家達は、当然都市を構造の集積とみる。「神は農村を、人は都市をつくる」などという言葉が西欧にあるのは、その適例である。

しかし、建物の連続と見られる都市も、よく見ると、そこに人間が住んで生活している。ただし、人間の居住生活は必ずしも都市だけではない。農村だって、人間の住まいがあり、生活がある。したがって、私の専門とする社会学の立場からすると、都市は単に人間が居住し、仕事をするところだけではないという経験である。私の都市の未来像を描く背景として、その経験の二、三をあげてみる。

第一は、一九七〇年代の都市の姿である。アメリカの経済の低調も原因したが、その国土に定着している“黒人”達の生活はいっそうきびしいものがあった。彼等はその救済を求めて都市に集まる。その都市とはシティ・ホールと呼ばれる市役所であり、市役所前の広場などである。

このような低所得の黒人達は、ついにその要求の貫徹のために、首都ワシントンを目指して行進する。そして国会前のワシントンの記念塔のある広場に自然に集まる。自ら称して“プーア・マーチ”(貧しい者達の行進)として後世に伝えられる。私はその光景を現地で見た。そしてそれこそが都市の象徴だということである。国会前の美しい建物、リンカーンやジェファーソン大統領の記念館は宿泊の中心となり、庭前のプールは占拠者の飲料水となる。警察がもっとも困ったのは、“汚物”の処理だったと伝えられる。

都市は、このように、人間がその住むところを離れても集合する。その場所は“広場”である。集まったものは、“大衆”と呼ばれる。大衆は、常に都市のもつ“権力”に対して、“是非の判断”をする。大衆のない、それを抑える空間としての広場のないのは、都市とはいえない。

そういえば、世界の大都市と呼ばれるところには広場がある。中国の首都北京の天安門の広場、パリの凱旋門と対応するコンコルドの広場、それらの名前を聞くだけでも、そこで繰り返された“大衆による出来事”は、その都市に、歴史と未来とを与えているのである。

この意味からすると、日本の都市、とくに首都東京には、いわゆる“広場”といわれるものは少ない。明治から昭和のはじめの時代には、“日比谷公園の広場”は随一のものであった。それが何時の間にか広場としての役割をやめた。太平洋戦争への突入の過程で、東京市民が“大衆”としての行動をすることを政府が抑止するための措置といわれる。

しかし、このように述べると、神宮や皇居前の広場があるというかも知れない。しかし、それは東京の市民が自主的に、“大衆”として利用できるような場所ではない。この点からすると東京は“欠陥都市”といわざるをえない。

第二は、しかもその東京でも“大衆”は自由の空間を求めている。一つの例は、一九七〇年代、日本の都市は“大学紛争”の渦中にあった。それは前述の“プーア・マーチ”の“学生版”ともいえる。私はその当時東洋大学の学長として、“学生大衆の攻撃の標的”だった。

彼等は、運動の目的を大学の改革などに止めていない。大学の立地している“区の解放”まで叫んだ。東洋大学(白山)の近くに東京大学(本郷)がある。二つの大学生達は連合して、文京区を“解放区”と称しその実現を図った。しかしこの地区には、学生大衆が集合する“広場”がない。その結果彼等は広場の代わりに“塔”を利用したのである。

“安田講堂”の名で知られている東京大学の講堂は、単にその大学のために機能するものではなかったのである。隣接の大学の学生と協同して、“権力の象徴”ともいうべき講堂の占拠を図ったことになる。結果は一時的な占拠にとどまったが、もし東京に“大衆の広場”があったなら、そのような姿にはならなかったと思う。

そういえば、“革命の本場”ともいうべきソ連の首都モスクワにも通称“赤の広場”といわれるクレムリン広場がある。そこは毎年革命記念日に軍隊の行進があるだけではない。中央には“革命の父レーニン”の墓地があり、外国からの観光客で賑わう場所となっている。それでも社会は“クレムリン”という言葉を使い続ける。都市は大衆によって、シンボルが期待されていることを示すといえる。

 

1)都市論集III – VIII 人間回復のまちづくり理論