第八 “エキュメノポリス”の展開

X 日本の都市社会の未来像

第八 “エキュメノポリス”の展開

エキュメノポリスという言葉は、すでに触れた二〇世紀の都市問題について記念すべき集会の一つであったデロス会議で、ギリシャのコンスタンチノス・ドクシアデスが提唱した当面の都市のゴールである。

彼は、この言葉に定義らしいものを述べていない。しかし二〇世紀がメトロポリス(大都市)からメガロポリス(超大都市)への段階だとすれば、二一世紀の段階についての表現としての位置づけがこれである。

一 エキュメノポリスの性格

ドクシアデスのエキュメノポリス-エキュメニカルというのは世界的または地球的を意味する-は、その言葉の意味からすると、“世界都市”ということになる。そこに含まれている意味は、

第一に、地球上において、大都市の形成は不可避である。それはニューヨーク、ロンドン、東京などの“古い大都市”だけではなく、発展途上国に新しく見られるメキシコシティとか、上海、リオデジャネイロなどがその例となる。

これらのうち古い大都市については、これまでいろいろな方法で、都市の巨大化を防止する努力がつづけられてきたが、いずれも成功していない。それどころか、それらの都市の範域を拡大することによって、都市としての合理性を保っている。

第二に、これらの大都市は、新旧も含めてそれぞれの属している国、およびその国内の都市に対して“支配的”な地位を占めている。それらの大部分は、“首都”であるという特性があるが、それだけがメトロポリスの頂点に立つ理由ではない。したがって大都市は、国に対応する地域社会となっている。

第三に、二〇世紀のメトロポリスは、その周辺に“ハレ―すい星”にも似た帯状の大都市の連帯地域―それを彼は“メガロポリス”と呼んだ-を形成している。アメリカの東海岸―北はボストンから南はワシントン、東海道メガロポリス、東京から大阪まで-そして、上海メガロポリス-上海中心の揚子江沿岸都市等、このような傾向は地球上において、大都市の人間のつくったもっとも大きな地域社会として発展する傾向を示唆している。

二 エキュメノポリスの兆候

エキュメノポリスを、都市学的に規定すると、その前提として地理学者ジャン・ゴットマンが定義したように、ボストン・ニューヨーク・ワシントンを連帯する地域が想像される。しかしメガロポリスからエキュメノポリスへの展開は、必ずしもメガロポリス的な都市形成の延長・拡大ではない。私が二一世紀の“まちづくり”のなかで、この名称を使うとすれば、すでに世界にはこれまでの“都市概念”や“自治定義”をこえたエキュメノポリス的環境がつくられている。それは次のようである。

第一は、イタリアのローマにあるバチカン市である。都市の景観的形成からすればローマ市の一部であるが、その地域の構造、施設の機能、都市の活動は全世界に“連帯”している。

カソリックの信仰を基調とする宗教活動のネットワークは、バチカン市を中心に、情報化時代をまたず、はるかに遠い時代から世界の都市の役割を果たしている。その存在が、“世界の平和”につながる存在であることも、これからの“まちづくり”には大事である。

第二は、スイスのジュネーブである。第一次世界大戦後、自らの国は永世中立国であることを言明し、その象徴のように、湖都ジュネーブの沿岸に「国際連盟」の建物―パレ・デ・ナシオン-をつくった。第二次大戦後、新しく「国際連合」が誕生し、その基地がニューヨークにつくられた後も、このジュネーブの建物は、国連の機能であるWHO(国際保健機構)、ILO(国際労働機構)等の施設として使われている。世界の平和を守る都市としてのイメージは、エキュメニカル的な役割を果たしている。

第三に、すでにのべた国連は、その本部をニューヨーク市内に置く。しかし行政上この地域・建物はアメリカの行政権からは独立している。摩天楼が林立しているニューヨークの一角に、国連は本部の他に、すでに第二、第三の超高層ビルをつくっている。

同じニューヨークの五番街の中心に、カソリックの寺院がある。まさにビルの谷間というべき地域である。古びた建物は外から見ると廃屋に等しい。しかし一度扉を開けて中に入ると、数百を数えるロウソクの光の下に、多数のニューヨーク市民が祈りを捧げている。

国連は二〇世紀の世界平和のセンターとして建てられた。行政的にはアメリカから独立しているが、その国連の建物の近くのビルには、ところどころに”シェルター“という印がついている。いわずと知れた空襲に際しての”避難所“である。目の前には、世界平和の祈り本尊である国連がある。しかしすぐその隣にの建物には空襲を警告する掲示があると、いったい国連をニューヨークに立地させた意義は何かと問わざるをえなくなる。

第四に、第二次世界大戦につながる太平洋戦争で、日本はハワイに駐留していたアメリカ艦隊を“奇襲”する。戦後アメリカ人は“真珠湾を忘れるな”という言葉をいいつづけてきた。しかしその被害をうけた軍港の近く、ハワイ大学に隣接して「東西センター」(East West Center)がつくられている。太平洋に平和の波をただよわせるために、東の集会場はアメリカ人、西の棟はアジア人(中国の建築家)が設計し、これまで太平洋沿岸諸国の各種の会合が開かれてきた。

一九八六年四月一日、私は久し振りにここを訪れた。センターのプレジデントは、中国出身の学者だった。最後に別れるときに、このセンターに集まった人は、必ず世界のために平和を誓ってくれますよと語った。このセンターもエキュメノポリスの一つではないかと思う。

それにしては、わが国は戦後、オリンピック競技大会を東京で、万博を大阪で、科学万博を筑波研究学園都市で開いている。オリンピックの施設を除いては一時的な施設といえばそれまでだが、何かそれがエキュメニカルな視点で残るような“まちづくり”は出来ないものかどうか。

日本人は、その憲法において戦争を放棄したと世界に宣言している。そして“平和”といえば、広島・長崎の原爆被災を銘記した施設が語られる。なぜもっと広い視点から、日本に世界の平和を祈念するようなエキュメノポリスがデザインされないのか。

東京都は、日本の首都、日本国憲法を守っている一千万をこえる市民が生活している場である。二一世紀の東京がエキュメノポリスになる可能性はいろいろ予想される。したがってそのシンボル的存在のシティ・ホールのデザインのどこかに、東京が世界の都市であることをシンボライズするものを期待するのは、あえて私一人ではないだろう。

三 “世界都市連合”の実現

二一世紀を、中央と地方、国家と都市、国政と自治など、すべてを対立の論理で展開しようなどと考えるものではない。しかし、二〇世紀の一〇〇年の間に、再三戦争を経験し、その最後に“敗戦”の憂き目を見たのは日本であるし、その決め手となったのは、原子爆弾による広島・長崎の都市の崩壊である。二一世紀に向って、あえて平和の理念を中核とする“まちづくり”を希求するのも、むしろ当然のことではないかと思う。私は一九六三年のデロス会議で、“ノー・モア・ヒロシマ”こそが“まちづくり”の基本理念であることを述べた。それから約二〇余年たった一九八六年、原子力の平和利用で知られているアメリカのスリーマイル島の原子力発電所を視察した。一九七九年に、ここで起こった事故の事後処置に対するアメリカの世論を知るためであった。

日本からは、これまでの多数の自然科学者が訪れていた。しかし私のような社会科学者の訪問は初めてであった。とくに私が「核兵器禁止平和建設国民会議」の議長だという肩書は、相手を若干警戒のなかに置いたらしい。しかし私の目的が、アメリカ国民の“平和利用”についての反応を知ることだということから理解を得て語り合ったことは、原子力の平和利用が“都市の真中に発電所がつくられても、市民はそれに危険を感じないという信頼を得て、はじめて完全な平和利用が実現する”といった点であった、平和都市の建設が抽象的な平和の理念でなく、具体的な科学の利用についても、十分な配慮が必要であることを改めて認識したのである。

それにしても、国内はもちろん国際間における姉妹都市の連帯は、つぎつぎに結ばれている。もしそのなかに、お互いに“核兵器廃絶”を基本とする平和を祈念する条件がとり入れられたなら、それは国境をこえての“非核都市”の提携となる。

世界の都市とくに大都市は、好むと否にかかわらずその拡大化をつづける傾向にある。もしそれが、平和を脅かすような基地となるならば、そのときの災害はとうてい広島・長崎の比ではない。

日本の都市が二〇世紀に不幸にも経験した出来事を、軍事利用はもちろん、平和利用の面においてもエキュメノポリスには再現しないことを祈ってやまないものである。(一九八七年)

IX 日本の都市社会の未来像.pdf (磯村 英一都市論集IIIより抜粋)

第一 はじめに

第二 都市論形成の軌跡

第三 都市と市民社会形成

第四 都市と地域社会の論理

第五 脱コミュニティ論

第六 新しい市民社会の形成

第七 予想される都市社会の未来像

第八 ”エキュメノポリス”の展開